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小田原城
2月の末に、たまたま小田原にアルバイトがあったので、梅がそろそろ咲いてる思って、小田原城によってきました。梅は咲いている木は満開でしたがまだつぼみの木もあってばらばらでした。全体には五分咲きといった感じでした。今年は寒さが厳しかったのでどこも遅れているようです。
夕日を受けてそびえる天守閣です。周りのどの梅ノ木にも市民の皆さんの短歌の短冊が付けられています
赤い梅、白い梅いろいろな種類の梅がポチポチ花をつけていました
左は銅門、右が常盤木門です。

小田原といえば北条氏と豊臣勢の攻防戦で、北条方が開城か決戦かをどうするこうするでなかなか決まらなかった「小田原評定」で有名です。結局この戦いでは豊臣秀吉が勝ち、戦国統一が図られました。戦いの模様を、城址公園の説明案内から以下に引用します。
                 天正18年(1590)4月
、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲される。
中世最大の城 小田原城
 北条氏の当主氏直は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員体制を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9kmに及ぶ長大な大外郭を構築して決戦に備えていた。
 結果的に交渉は決裂。氏直は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、さらに領内100箇所に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。
小田原城を包囲する戦国の英雄たち
 豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本,隊は東海道、前田利家・上杉影勝率いる北陸勢が上野の國(群馬県)から北条氏の領國に侵攻。長曾我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。 
 大外郭の出現により中世最大の規模を誇った小田原城には、6万ともいえる人々が立て籠もり、豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多秀家・池田輝政・堀秀政など、名だたる戦国の英雄たちを迎え撃ち、3ヶ月余りに及ぶ攻防戦を展開する。
秀吉、石垣山城構築
 北条方は、各地の諸城に籠もって防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦だったが、主力の籠もる小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申しいれ、みずからの命と引き換えに、籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。しかし、秀吉はこれを認めず、氏直の父氏政とその弟氏照らに切腹、氏直に高野山追放を命じ、ここに戦国大名小田原北条氏は」滅亡した。
そして戦国時代は終わる
 この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達政宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。この結果、天下統一に事業が達成され、北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げました。

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